20220821

引っ越したことで歩いて行けるようになった珈琲屋さんへ、モーニングを食べに行く朝。日曜日の朝史上いちばん心地よかった。今日は妹と一緒に行ってかなり楽しかったけど、次はひとりで行って、読書をしながらゆっくり過ごしてみたいと思った。そして帰り際に1週間分のコーヒー豆を買って帰れたら、なんて素敵な習慣を妄想する。

その足で近くの美術館へ向かう。今日は「ジブリパークとジブリ展」へ。朝の空気に包まれた美術館の装いがとても好きで、今回の展示はなるべく早い時間に行こうと決めていた。展示室に入ってしまえば、大人も子どももたくさんいてゆっくりはできなかったけど、『コクリコ坂から』にまつわる展示を見かけて、この映画の朝の描写と、今日のこれまでの心地良い朝のことを思った。『コクリコ坂から』のオープニングにある、朝の支度をする一連の描写がわたしはとても好きで、それがこの映画を好きな理由でもある。他にもアニメーションを制作する過程についての展示があって、これだけの技術と時間とエネルギーを費やしてアニメーションを作る人たちのことを本当にすごいと思った。ジブリパークが完成したら行ってみたいし、また三鷹のジブリ美術館にも行きたいな。nagano.art.museum

上映期間が限られている、いくつかの観たい映画を追いかけていたら今週だけで6本も観ていた。すごく好きな映画もあったし、よく分からない映画もあったけれど、最近観たたくさんの映画を通して自分の気持ちに向き合った時に、とても会いたいなと思う人がいた。互いのことをまだよく知らないし、その人が同じ気持ちだとも限らないけど、わたしは、お互いが疲れないくらいに一緒にいれたらいいだろうなと思う。昨夜までは会いたい気持ちを伝える勇気がなかったけれど、今日、とてもいい朝を過ごせたことでほんとうに思ってることを自然と文字に起こしていた。その気持ちを伝えることに大した勇気はいらなかった。

(追記:忘れたくないのでメモ。夜、美味しい野菜をたらふく食べながら飲んだ新樽の白ワインがとても美味しかった。樽の味、わからないけどわかった。甘くないのがいい、ワインのこともっとちゃんと勉強してもっと楽しみたいな)

20220820

今日の日記には「6連勤やっと終えたぜーーー!」なんて書く予定でしたが、急遽お休みになったので6連勤には至りませんでした。おかげで観るのを諦めていた映画を観れたし(途中結構寝てしまったけど)、今日誕生日を迎えた母を家族みんなで祝えた。そのことが嬉しかった。家族で美味しいものを食べながら「美味しいね」と言い合い、酒を飲み、しょうもないことで笑い合う時間のことを、わたしはいつでもどこまでも愛せる。完璧に理解しあえることはなくとも、互いのことを受け入れ、会話に耳を傾け、居場所になることができる。久しぶりに家族で過ごす時間が、この居心地のいい家族のもとに生まれてこれたことはわたしがこの人生で手にした最大の幸運だと、そっと教えてくれた。

20220819

毎日、今日くらい穏やかな気持ちでいたい。別に毎日荒れてるわけではないのだけど、荒んでしまう瞬間がごくたまにあって本当に良くない。今日はこの穏やかさゆえに強い気持ちでいられた。強い気持ち、というのは尖ったものではなくて、ちょっとした事ではへこたれないぞという、低反発まくらみたいな丸みのある感じ、だと思う。自分でも書いててよくわからなくなってきたな。角がなくとも、ないからこそ強くあれたら。

今日も映画を観た。ノルウェーの映画『わたしは最悪。』また大好きな映画にひとつ出会えた。。もう一回観たいくらいよかった。人生の中で予期せぬタイミングでやって来てしまう、心がときめく瞬間のこととか。あらゆる選択をするまでの過程がいくつも描かれていた。本当によかった。まだ感想を全部言葉にはしてしまわず、心の中に留めておきたい気持ち。ほとんど全部の描写に心を擽られた。

帰り道はすっかり涼しくなっていた。レイトショーの余韻に浸りながら歩くにはちょうどいい気温で、疲れてたけど歩いて帰った。もう夏の匂いはしない。秋の音と、秋の匂いがする。秋の匂いがどんなのかって聞かれるとうまく説明できないけど、これが夏の匂いでないことだけはたしかで、だから秋の匂いなんだと思った。野良ランチが復活できる日も近い。

20220817

雨が降りそうで降らない曇り空で、とっても涼しい朝。こんな朝のイメージはベボベの「転校生」な気がして、久しぶりに聴いてみる。…あ、この曲がいっちゃんカッコいいんだよなって思い出した。他にいくらでもカッコいい曲は存在するけれど、いざ転校生を聴いてしまうと、この曲のギターには叶わないなって思ってしまう。ギターといってもリードギターのパートではなく、こいちゃんの弾いてるリズムギターの方(もちろんどちらもカッコいいんだけど)。わたしはギターのことは全然わからないし、弾けもしないけど、こいちゃんのギターパートがカッコいいことだけは分かる。ギターの走らせ方が好き。

ファミリーマートで靴下が3足1000円になってた。嬉しい。ここのところはファミマでばかり靴下を買ってる。色がかわいいの。みどりとむらさきがお気に入りだったのだけど、先月立て続けに穴が空いてしまったので買い直すことにした。先月はお気に入りの靴下のほとんどに穴が開いちゃって悲しかったな。それと、新しく蛍光イエローを買ってみました。うまく履きこなせるだろか。

20220816

まだお盆であるということをすっかり忘れていた。だから、お昼ご飯はいつもの町中華でラーメン食べようと思ったのに、町中華はお盆休業中。結局セブンイレブンのパスタサラダ(トマトのやつ)で済ませてしまった。

帰りにかなり怖い映画を観てしまった。『女神の継承』タイのホラー映画。映画はたくさん観ているつもりだけど、ホラー映画は今までほとんど観てこなかったから、ホラー映画を観た帰り道ってこんな気分になるのか、とちょっと新鮮な気持ち。救いのない映画だったので、後味は悪いけど。帰り道のいつものアーケードは夜の姿になっていて、無料案内所の看板が出ていたり、ラーメン屋が賑わっていたり、映画から離れた現実は平和だなあとほっとした。長尺の映画を観ているとだんだんお腹が空いてきて、これ観終わったら何食べようかな…とつい考えてしまうのだけど、今日の映画に限っては全然食欲が湧いてこなかった。ホラー映画、ダイエットとか節約にも効果があるかもしれない。

映画を観た日の日記はどうしても映画の感想になってしまうなあ。でもめんどくさがって日記(より不確かなもの)を書くことをサボってしまったら、しばらく書かない日が続いてしまいそうなので、今日はなんとか、ぽちぽち書いてみています。また明日。

20220814

引っ越しらしきものはあっさり終わって、新居でこれを書いています。足りないものが多すぎる。明日も仕事終わったら買い物に出なきゃな…

シャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』を観る休日。1週間しか上映してないから、タイミング的に今日しか観れなくて。3時間20分、休憩なしだなんて強気な映画だなと思ったけど、実際そうとも言えると思う。そんな映画。部屋の電気を点けて、消して、じゃがいもの皮を剥き、茹でる、息子が帰って来ればキスをして出迎え、皿を並べ食事を用意する、夜にはラジオを聴きながら編み物をし、散歩をする、全てをここに書き連ねることはできないけれど、本当なら映画にならないような、生活におけるあらゆる些細な瞬間が全て映し出されていたように思う。3時間にわたって、ある一人の主婦が生活を営む様子を淡々と映し続け、迎えたあの結末は簡単に言葉にできるものではなかった。3時間ただ見守り続け、小さな小さな変化を感じ取ることができた者だけが、やっと理解できるのだと思う。

ところどころコーヒーを飲むシーンがあった。朝、1日分のコーヒーを淹れた時のひと口。買い物がてら、いつもの喫茶店のいつもの席で飲む1杯。序盤、それらは彼女にとって束の間の休息にも思えたのだけど、後半にやってくる同じシーンは全く違うもので、どこか狂気を潜めていた。彼女はセリフとしてはほとんど何も言わない。生活の些細な変化、ちょっとしたタイミングのずれが、あの結末を引き起こしたのだとしたら、生活におけるあらゆる事柄のなかで言語化できるものはごく一部であって、言語化できないような感情の変化や、環境に起因する生活の小さなずれがいずれ大きな悲しみになり得ると言える。映画の中の出来事ではなくて、今現在生活を営む全ての人たちに起こり得る。そんなことを思いながら観た。観終わった後の帰り道、ずっと画面に集中していたせいか頭痛がしたし、思った以上に疲れていた。激しい映画ではないけれど、観るのにものすごくエネルギーを使ったみたいだ。すごい映画を観た。

20220813

 ホン・サンスの『イントロダクション』を観た。モノクロームの66分。この前観たホン・サンスの過去作『夜の浜辺でひとり』にも冬の海が出てきて、それは孤独や寂しさの輪郭をやわらかく映し出していた。今日『イントロダクション』を観て、わたしはこの人の映画を通じて自分の孤独や、寂しさや、言語化できない生きづらさを認識できるのだと思った。ホン・サンスの撮る冬の海を通じて、または長回しのなかでタバコを吸いながら会話する登場人物たちの、行間に見える曖昧な表情を通じて、わたしは自分の輪郭を認識できる。自分と向き合うことができる。好きか嫌いかは置いといて、自分の輪郭を認識するために、向き合うために、わたしはこの人の作品をもっと観たいと思った。

 と、映画の感想や、映画を観て考えたことを文章にするとこんな感じになるのだけど、映画について誰かと話すとなると、必ずしも同じ言葉は出てこない。(相手によるものの)同じ言葉で誰かと会話はできない気がする。わたしの場合、文章にすることと、話すことでは、言葉の出力のされ方が全く違うのだと思う。文章の場合は思考を反芻して深いところから出てきた言葉、誰かと話していて出てくる言葉は手に取りやすい場所にある選択肢、という感じだろうか。Podcastはその中間かな。だからわたしはこうして文章で日記を書き残しておくし、ひとりでしゃべっている音声を残してみたり、信頼できる人と会話をする。ここ最近は毎日日記を書けているけど、会話が少し足りていないなあ。会話で使える選択肢をもっと増やしたい。

20220812

ここでは、もっと自分のための文章を書こうと思った。自分のための言葉を残しておく場所にしたいと思った。誰かに読んでもらうための、綺麗にまとまった言葉を並べるのではなく、ぼんやりとした思考の輪郭をかたどるような、あるいは心の隅にある言葉のかけらを、幼い子どもがお気に入りの石をそっと並べるように、綴っていく場所にしたいと思った。
なら手帳にでも書いておいてインターネット上に共有する必要はないはずなんだけど、自分が綴った言葉が世界からどう見えているのか、少しだけ気になって。Podcastも同じ理由で、自分の話す言葉が、声が、世界ではどう聴こえているのか知りたくて続けている側面もある。ひとりぼっちで始めたPodcastだけど、思いがけず嬉しい反応をもらったり、多くはないものの思った以上に色んな人に聞いてもらえて、気がつけば世界とつながる手段のひとつになっていた。

今日、職場の人と話していて気づいたこと。自分には相手の言葉を適切に理解しないまま、流れで適当に反応してしまう癖があるなと、今更ながら気づいて帰り道に反省した。興味のない話題になるとこういう反応しがちかもしれない。適当に反応しておいて、深いところでの会話をしたくないという気持ちの現れ。あるいは沈黙を恐れているか、です。どちらにせよ、適当に流しすぎて正解と真逆の反応をしてしまう可能性を見出してしまったので、ちょっとこれから注意していきたい。改善策、になるかは分からないけど、相手の目を見て話すことを心がけていきたいと思います。誰かとちゃんと話がしたいと思った時、あるいは、相手の声を「ちゃんと聴いているよ」と示したい時、わたしはその人と目を合わせようとするから。目線を合わせることはコミュニケーションになるということ、それがとても大事なことだと、わたしはずっと前から知っていたのだから、もっといろんな場面で実行していくだけだ。