引っ越しらしきものはあっさり終わって、新居でこれを書いています。足りないものが多すぎる。明日も仕事終わったら買い物に出なきゃな…
シャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』を観る休日。1週間しか上映してないから、タイミング的に今日しか観れなくて。3時間20分、休憩なしだなんて強気な映画だなと思ったけど、実際そうとも言えると思う。そんな映画。部屋の電気を点けて、消して、じゃがいもの皮を剥き、茹でる、息子が帰って来ればキスをして出迎え、皿を並べ食事を用意する、夜にはラジオを聴きながら編み物をし、散歩をする、全てをここに書き連ねることはできないけれど、本当なら映画にならないような、生活におけるあらゆる些細な瞬間が全て映し出されていたように思う。3時間にわたって、ある一人の主婦が生活を営む様子を淡々と映し続け、迎えたあの結末は簡単に言葉にできるものではなかった。3時間ただ見守り続け、小さな小さな変化を感じ取ることができた者だけが、やっと理解できるのだと思う。
ところどころコーヒーを飲むシーンがあった。朝、1日分のコーヒーを淹れた時のひと口。買い物がてら、いつもの喫茶店のいつもの席で飲む1杯。序盤、それらは彼女にとって束の間の休息にも思えたのだけど、後半にやってくる同じシーンは全く違うもので、どこか狂気を潜めていた。彼女はセリフとしてはほとんど何も言わない。生活の些細な変化、ちょっとしたタイミングのずれが、あの結末を引き起こしたのだとしたら、生活におけるあらゆる事柄のなかで言語化できるものはごく一部であって、言語化できないような感情の変化や、環境に起因する生活の小さなずれがいずれ大きな悲しみになり得ると言える。映画の中の出来事ではなくて、今現在生活を営む全ての人たちに起こり得る。そんなことを思いながら観た。観終わった後の帰り道、ずっと画面に集中していたせいか頭痛がしたし、思った以上に疲れていた。激しい映画ではないけれど、観るのにものすごくエネルギーを使ったみたいだ。すごい映画を観た。