今タイトルに日付を入力したところで、今日が住民税の納付期限だったことを思い出した。23:55。やばいやばい。銀行のアプリからペイジーで払い込みができて何とか間に合った。よかった。金欠は続くので全然よくないけど。
3日も休んでしまうとやっぱりちょっとぼーっとしてしまうかも。今日は特に大きなミスとかは起こさなかった(はず)けど、2日以上休んでしまうと、体が労働モードに切り替わるのに少し時間がかかる。でも今日は悪い日ではなかった。
退勤して夜の回の映画を観る間、少し時間があったので買い物に行きがてらPodcast「Call If You Need Me」を聴く。友達とこういう会話ができたら理想だなって、いつも思う。文学や映画のこういう表現が好きだとか、相手の好きそうな本や映画をおすすめしあったり、言語化することについてとか。後半で話していた言語化されるタイミングについての話にハッとした。
…結構辛いことだよね(歌詞を)書くってことは。「いい歌詞書きたいな〜」ってのじゃなくて苦しいよね、歌詞だけじゃなくて何かを言葉にする作業って。その(歌詞を書くことが)セラピーになってるっていうのもさ、言葉にできてるってことは、そのことが、記憶とかできごととかが(ある程度)手から離れてないとできないというか。まだ自分の中にぐるぐる巡ってるものって言葉にならない感じがする。初めて言葉になった時に、あるいは言葉にできる前の何かのタイミングで、初めて外部化されるというか、外に手放せるタイミングがあってやっと言葉になるのかな、みたいな。「手放す」っていうプロセスが絶対そこに含まれてるって考えるとそれはセラピーだなって。…
映画や美術館で展示を観たあととか、最近だとこうして日記を書くようになってから特に、この言語化する前の、自分の中に巡っている思考や感情の言葉にならなさとかを、言語化してしまうことで落ち着いてしまう感じが、わたしの中にもいつもあって。映画の感想とかだと、自分の感想がままならないうちに「同じ映画を観た他の人たちはどう感じているんだろう」とか気になってしまって、ついFilmarksのレビューを覗いてしまったり誰かと話してしまったりすると、そこには既にあらゆる言葉が並んでいて、自分の中にあるまだ言語化される前の思考や感情(あるいはそのどちらでもない何か)が、他人の言葉を借りて定まってしまう感じがあったりする。Podcastの言葉を借りるなら、セラピーが無理やり終わってしまう感じ。そうではなくて。最近は特にいろんな映画を観ているけど、どれを観ても「よかった!」「感動した!」みたいな簡単な言葉では片付けられないものが大なり小なり自分の中に生まれていて、それと向き合い、言語化して手放すプロセスを踏むまでが本当の意味で「映画を観る」ことなんだと思う。かなり体力のいる鑑賞方法ではあるけど笑、わたしはこの一連の流れがとても好きだし、ライフワークになりつつある。
ごくごく自然な流れでロメールの映画の話をしたり、エドワード・ヤンの『恐怖分子』が好き、という会話をしているのがいいなあ。『恐怖分子』はわたしもかなり好きな映画なんだけど、そもそも台湾映画を観てたり知ってる人って全然いないから、こんな会話をしている人たちも存在してるんだって嬉しくなった。ロメールも観よう。