20220920

今日観た映画:ウォン・カーウァイ『恋する惑星』(1994)『天使の涙』(1995)

※ストーリーについてのネタバレはありませんが、映画の核心に触れる部分について書いています。知りたくない場合はここで目を閉じてくださいね。。

 

 

 

 

『恋する惑星』が「雑踏ですれ違う見知らぬ人々の中に 将来の恋人がいるかもしれない」という語りで始まるように、あるいは『天使の涙』で口の利けない男・モウ(金城武)のモノローグとして「毎日大勢の人とすれ違うが、その誰かと親友になるかもしれない だからすれ違いを避けない」とたびたび語られるように、どちらの映画も(中国返還前の)香港という都市や、そこでの日常に潜む偶然性から成り立っている。街中で偶然すれ違うふたり、偶然手に入れた部屋の鍵、居酒屋で偶然流れる忘れたかったあの曲…。ネオンが煌めき、人で溢れる香港に暮らす登場人物たちはこの「偶然」に翻弄され、それをスクリーン越しに観る私たちもまたこの「偶然」に惹きつけられる。映画の中の「偶然」には然るべき結末がやってくるけれど、現実に暮らすわたしたちの生活の中にもまた、大なり小なり偶然のできごとが起きているわけで、それを切り取って並べたものなら、わたしたちが営むごくごく平凡な生活だってウォン・カーウァイの映画のワンシーンになりうる気がしてくる。もちろんカメラマンはクリストファー・ドイル*1で。「今のできごと、ウォン・カーウァイの映画みたいだった!」なんて時々思えたら、生きることももうちょっと楽しくなると思う。

昨日観た『はなればなれに』同様、どちらもほんとうにほんとうに好きな映画。言葉で説明できる範囲を軽々と超えてくるし、言葉の無力な側面をこれでもかと叩きつけてくる。『恋する惑星』に期限間近のパイナップルの缶詰がたくさん出てくるように、缶詰にも、恋にも、この世のあらゆるものには期限があるけれど、どちらの映画も最後には人がもつあたたかさは永遠だと教えてくれる。『天使の涙』の登場人物たちは皆何かしら傷ついていて、一見寂しい物語にも思えるけど、最後の最後にもたらしてくれる優しいあたたかさのことをわたしはずっと忘れないと思う。
『恋する惑星』の2本目(トニー・レオンとフェイ・ウォンのパート)が記憶していたよりはちゃめちゃでたくさん笑ってしまった。でも他のお客さんが笑ってる感じにはあまり思えなくて、「え、もっと笑っていいんじゃない?」なんてひとりで思いながら観てた。トニー・レオンの役名が633なのがめちゃくちゃ良い。

映画を観に行こうと外に出た瞬間、寒くてびっくりした。涼しい通り越して寒い。昨日は半袖Tシャツでよかったし外でジェラート食べても平気だったのに、今日は長袖のシャツを着ていても寒く感じた。雪駄を履ける季節が終わってしまった。

*1:ウォン・カーウァイの映画の多くで撮影を担当している。